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劇団印象・瘋癲老人日記/観劇所感

【劇団印象・瘋癲老人日記】
 〜観劇所感〜

 上記、妻の出演作を二日間連続で観に行った。1回目は全体を俯瞰出来る少しだけ後方の席。2回目は最前列のかぶりつき。2回目観劇後は同行頂いたヲタク仲間、しば氏と酒を酌み交わしながら劇についてゆっくりと語り合うことが出来た。その内容も踏まえ、今回の作品に対する所感を述べたい。とりとめなく思い付きのまま演繹的に書き下ろされる内容であるため、読み難い構成であることを先にお詫びする。なお、俺は原作未読であり、これは劇中の内容のみに対する感想である。


0.はじめに
 「そう!そうなんだよな!」
 ニヤニヤが止まらなかった。
 快哉に膝を叩くような、満足感にも似た心地に終始した。アフタートークで脚本家の鈴木アツト氏は「陰惨な老人イジメではなく、滑稽な描写を目指した」みたいな説明をしたと記憶しているが、個人的に滑稽さは微塵も感じず、萌えヲタである俺自身の日常背景と照らし合わせて、痛快なまでに深い共感が連続するような観劇体験となった。そのため、滑稽さを意図した作品と言うのなら、この脚本は個人的に大失敗である。しかし、その本来の意図如何と関係なしに、素晴らしい作品と感じた。
 念のためだが、この作品は谷崎潤一郎の文学作品を基にした現代劇であり、内容・宣材など一切ヲタク向けの意図は無い。しかし、俺のような二次元キャラクターに恋をする萌えヲタ、あるいはアイドルを追うドルヲタあたりに共感され得る内容であり、こうした人達にこそ観て頂きたいと感じた。ヲタ的表現で言うなら「わかりみが深い」内容である。
 性的に不能な督介老人は、颯子と肉体的に結ばれることは無い。それは、興味の対象がモニターの向こう側にいる萌えヲタと似た構図である。そうした関係性の中で生まれる強烈で執拗なフェティシズム、哀れなまでの渇望、相手に対する身勝手な投影と脳内補完、歪んだ信仰にも似た精神的な依存、一縷の希望に縋る弱く情けない姿。また、与えられることの無かったものが突如与えられた時の、魂の奥から細く滲み出して来るような、弱々しく見えるが実際は猛々しい絶頂に在る喜び(後述)。そして、三段階の支配と被支配の相転移(後述)。これらは、まさに萌えヲタとして強く共感出来る感情の数々である。そうした性に関わる屈折した感情の精髄を、督介を演じた近藤弐吉氏は見事に表現して見せたし、そして颯子を演じた5人の女優達もそれを督介から鮮烈に引き出して見せた。実に見事な演劇であり、俺は気持ちよく最後まで楽しめた。
 以下、いくつかの印象に残った場面や事柄に関して思い付いたことを綴っていく。既に観劇後日数を経て記憶が薄れて来ており、劇中での順番が前後してしまうところは御容赦願いたい。また、昭和の作品であり、敢えて「看護師」ではなく「看護士」と表記している旨など、御理解頂きたい。

1.冒頭部、督介の述懐
 若い男性俳優の入場と共に劇は開始された。
 「ふーてんろーじんにっき」
 朗々たる声が響き、劇の開始を知る。抑揚のない、平坦なトーンという印象。なんとなく狂言師のような雰囲気の声かなぁと感じた。腹から出た良い声。
 そして、ゆっくり出てくる督介。後から聞いた話だと、俳優さんは60代前半とのこと。劇中通して、もっともっと老齢に見える。見事な演技と衣装とメイクの技術、そして実に素晴らしい役者さん。特にかぶりつきで観ている時、彼の苦しそうな息遣いが聞こえてきて、動きや口調だけでなく、微細な「音」という極めてミクロなレベルにまで老いを表現・体現しているのが感じ取れた。
 「日記を書くというのは、書くこと自体に興味があるということ」みたいなことが語られた。もうこの時点でウンウンと俺は頷いていた。俺もブロガーとして学生時代はブログ日記をほぼ毎日更新していた。書くこと自体が好きでなければ、決してやらないだろう。誰かに読ませたいという下心は否定出来ないが、根底にあるのは「書く」ということ自体に対する渇望であり、基本的に自分のためにやることではある。
 その後、もう自分の性器は役に立たないが、性欲は違った形で出てくるのだ、みたいな内容を語っていた。中国の歴史に登場する宦官を想像した。日本で言えば大奥に該当する、皇帝の妻や愛妾達が住まう後宮にて、彼女達の身の回りの世話を行う去勢された男達である。男性器を切り落とされているため性的に不能ではあるが、それが却って彼らの様々な欲望を強めたと言われている。その他に、西村寿行の小説「ガラスの壁」に登場する虎吉老人と言う人物が思い出された。性的に不能が故に、彼は「舐め魔の瘋癲老人」と描写されている。きっと、この作品が元ネタになっているのだろう。萌えヲタも、性的不能ではないが性欲の対象が現実世界に存在しないため、物理的性交とは違う形で性欲の捌け口が形成される。即ち性欲とは根源的欲望であり、物理的に不能でも、それは何らかの形で存在し、また顕現・表出されるものであると言う考察が明快に表されており、これはそうした根源的欲望の在り様をテーマとした作品なのだと冒頭から腑に落ちる台詞回しだった。

2.医療的描写
 何度か、督介が苦しみ出して病に倒れるシーンがあった。
 黒衣の看護士達が出てきて、緊迫した口調で刻々と悪化していく血圧と脈の数値や患者の容体、行われる治療などを読み上げる。俺は寡聞のため「黒衣の看護師」というのが昭和の時代に実在したのか、存じ上げない。しかし、医師としての立場から書くと、少なくとも医療の現場ではあのように患者の状態を大声で実況中継することは無い。あのような、あからさまな連呼は患者本人や周囲の人間に不安を与えることになってしまい、現実的では無い。ちなみに、血圧・脈拍・呼吸数・体温などの基本的データを日本の医療現場ではバイタルと総称する。医療ドラマに限らず、実際の現場でも「バイタルは?」と医療者が周りに尋ねる場面があるが、実際は落ち着いた口調で伝えるものである。
 多分これは現実的な描写というより、一般の方が「患者容体急変」という事態に抱きがちなイメージと、督介が感じている自身の状態を重ねつつ、緊迫感を盛り上げる演出というところなのだろうと理解した。
 同様に、後半の方で看護士達が懐から謎のチューブを取り出して、督介につなげて何やら器具を操作するような演出も、現実的な観点からすればナンセンスである。頭部のチューブでは何やらバッグを握ったり放したりして空気を送り込んでいるような動作が見られたが(バッグバルブマスクという人工呼吸用の道具を表現しようとしているのだろうか)、普通はマスクを顔にかぶせて顔と水平の位置から操作する。下腹部の方に挿入したチューブを伸ばしたり縮めたりする動きも正体不明で、注射を表現しているのか、尿管が膀胱から脱落しないための留め具となる尿道バルーンに生理食塩水を送り込んで膨らませているのか(何度も入れたり抜いたりはしないが)、一体何をやっているのかよく分からない。この場面だが、全体的に看護士達の動きからはシュールを通り越して不気味な印象を抱いた。これも一般の方が「よく分からないが、何やらたくさんチューブに繋がれた状態」に対して抱くイメージを表現しているのだと感じた。即ち一般の方は医療というものに対してなんと得体の知れない、現実ばなれした、あるいは化け物じみた妄想的認識を抱いているのか、それが良く分かる場面、という風に取ることが出来た。

3.転換点としての入れ歯外し
 劇の前半における督介は社会的な成功者であり、どこか威厳を感じるような人物だった。物事を俯瞰したようなしっかりとした語り口で、観客にも目線を向けるなど、物語をリードする語り手としての役目を果たしていた。それが、後半となるにつれて段々と余裕をなくし、その精神はメタ的な存在から最終的には劇中へと没入して行った。颯子との関係や立場も変化し、当初はその様子を観て愉しんでいたのが、段々即物的となり、力関係は逆転し、後に崇拝するようになって支配すらされるようになった。
 その転換点を、しば氏は督介が入れ歯を外すシーンにあったのではないかと考察した。それは颯子が督介の横で寝るシーンで、普段は入れ歯を外して寝る督介が、颯子が側にいるので体裁を保ちたいのか、醜い自分を晒したくないから入れ歯を外したくないのだという実にいじらしい風態を見せる。最終的に颯子が入れ歯を外すよう促し、そこで督介は醜く老いた自分と若く美しい颯子を対比して劣等感のような感情を語る。
 「あそこで督介は、いわば牙を抜かれたのだ」と、しば氏は語った。
 確かに、その場面を起点に督介の精神は転がり落ちるような変わり方を呈した。颯子を尊きとし、醜い自分はそれに隷属する存在。最初の支配的・観察者的な立場からの逆転であり、これが冒頭で書いた支配と被支配の相転移の一段階目の転換点である。
 実際、督介が語った彼我の美醜における対比から湧き出る崇拝的な感情は、萌えヲタの世界でもよく見られる。醜い現実、美しい二次元。老いて行く現実の人間、永遠に若いままの二次元。こうした対比を精神的に積み重ねて行くと、最終的に此方を無価値化し、相手を神格化する域にまで達する。終盤、颯子を菩薩像のように描写していたのは、まさにこうした神格化の極致であるように感じた。実際、萌えヲタがそうした崇拝的感情を表現する際には、以下の表現を用いる。
 「尊い」と。

4.仏足石が意味するもの
 前のセクションで、入れ歯を外した瞬間が支配と被支配の相転移の一段階目の転換点であると書いた。それに対し、仏足石に関する下りは、二段階目の転換点と考える。
 一段階目の転換点で颯子に支配される督介という構図が完成し、その極致として颯子は物語の終盤にて神仏の如き存在として督介に君臨する。菩薩像を思わせるポーズを取り、四つん這いの督介に腰掛けるかのような素振りを見せる。颯子を演じる役者さんは、実際は片脚立ちでの姿勢を続けながら高さを微調整するのだが、実に見事な体幹の力とバランス感覚で、神々しき存在を表現しきって見せた。まぁ、そこはさすが俺の妻ってところなのだが(ぁ
 さて、神仏ともなるとそれは至高の存在であり、督介はどこまでも崇め奉るしかない究極の下僕となる。しかし佛教における仏様というのは、決して「支配者」ではない。そう考えると、ここで支配と被支配の上下関係が形を変え、違った関係性が生まれたというのは実に意味深である。そしてそれは、一段階目のように支配と被支配が入れ替わるだけにとどまらない変化となった。
 颯子が極限の存在にまで登り詰めたのと同時期に、督介は颯子の足の型を取り、それを仏足石として自分の亡骸の上に安置することを思い付く。そうすることで颯子は永遠に自分の足型が督介を踏み付けていることを知り、即ち督介は颯子の中で永遠に生き続けるのだと。そうして督介は死してなお颯子に踏まれ続けるという喜びに打ち震えることが出来るのである。
 ここに至り、督介は颯子への情欲に支配されながらも、同時に「督介の中の颯子」を生み出し、これを逆支配することに成功したのである。督介の中の颯子というのは現実に存在する颯子ではなく、督介が自らの精神の中に取り込んだ概念的仮想的人格であり「死してなお私を踏み続けていることを知る颯子」と表現される実存しない精神的存在、言い換えれば妄想や妄執に近い属性を持った颯子のことである。即ち督介は颯子を神仏の域にまで高めることで現実の颯子から脱皮した存在を自らの中に創造し、これによって督介は自らの精神を一つ高次(低次?)にシフトさせることが出来たのである。
 なんと萌えヲタ的な表現か!萌えヲタも、ひたすら好きなキャラクターを盲目的に追い掛けてお金を落として行くものだが、そうしていく内に対象を自らの精神世界に取り込み、都合の良い妄想を繰り返すようになるものである。こうしてキャラクターは本来公式に設定された範疇から一人歩きを始め、万人のファンの上に君臨し彼らの情欲を支配することで金銭的行動的消費を絞り出す存在だったのが、一人一人の萌えヲタの精神世界の中では逆に支配され意のままにされる操り人形と化すのである。これに至って支配と被支配の関係は崩れ、双方向に支配と被支配が両立する状態へ相転移を果たす。劇中で督介と颯子はこうした関係性を築くに至ったのであり、仏足石はその転換点を示す重要なキーワードとして象徴的な役割を担っているのである。
 余談だが、作品やキャラクターを自らの中に取り込み、そこで生じた感想・空想・妄想をなんらかの形にして世に送り出す行為を、萌えヲタはこう表現する。
 「二次創作」と。

5.颯子の息遣いとバブみ、そして舞風
 お風呂の覗き行為から督介が少しずつ颯子に「行っても良い範囲」を許されて行き、それに伴って颯子が段々と要求をエスカレートして行く一連の場面について、特にかぶりつきで観た場合この辺りの描写が実に緻密なものと感じた。
 督介が颯子の脚を舐めたりネッキングしたりしている時、それぞれの女優達は最前列でなければ聞こえない程度に微かな、しかし実に艶かしい吐息を漏らしている。一見それは督介の行為に思わず声を漏らしているかのように思えるのだが、一部傲然とした支配的な態度や姿勢を取っているところを観ていると、あえてそうした声を漏らすことで督介の官能を呼び覚まして興奮を煽る、ある意味で誘い受けの構図である可能性も考えられる。この息遣いをどう解釈するかで、颯子という人間がどれほど深い欲を以って誘惑や要求、間男との浮気を行っているのか、その評価が変わってしまう。果たして颯子は旦那と上手く行かない不満の裏返しとして戯れに督介を誘惑したり、おねだりを吹っ掛けてみたり、間男を利用して官能を満たそうとしているのか。それとも、旦那とは関係無しに自ら能動的に督介を煽り立てて色々と利益を毟り取ろうとしたりするしたたかで強欲な人間なのか。後者であれば、間男との関係も督介にわざと見せつけるようにして督介という人間を操作する道具にしているのか。
 俺は途中までどちらかというと後者なのではと思っていたのだが、唾を飲ませるシーンで分からなくなった。最終的に颯子は督介に唇を許さず、唾を一滴督介の口に垂らすに留めるのだが、もしも颯子が後者のような計算高い悪党だったとするなら、一層の要求を引き出すため唇を許しても良さそうなものである。あるいは後者だとして、最後の最後で躊躇いや恥じらいが出たとでも言うのだろうか。
 このように、女優達はそれがどちらとも取れるような境界線上を実に巧妙に演じていて、最後まで本質を顕にしなかったように思えた。この物語が督介の主観的視点から描かれている点を考えると、颯子というキャラクターをこのような絶妙なバランスで表現したというのは非常に正しく思える。先述の通り督介は颯子を自分の内側に取り込んで形而上的な存在として行くのだが、督介は最後の最後まで現実における颯子という人間の正体が一体何なのか、その意図が何処にあるのかを悟っていないのである。ちょっと拗ねた可愛らしい女性なのか、あるいは欲深い蠱惑的な悪女なのか。
 それにしても、あの爺ぃ、人様の嫁の首筋にむしゃぶりつきやがって(ぁ
 督介の、まるで幼児退行したかのように「痛いよぅ」と泣きじゃくるシーンも印象的だった。年下の女性に母性を感じるのは、古くは機動戦士ガンダムにおけるシャアとララァの関係に見られる。最近の用語でも、母性を感じさせる女性を「バブみがある」と表現し、それに対し赤ん坊のように甘えたい願望を「おぎゃりたい」と言う。劇中でも母親に関する回想があり、督介も母性、あるいは自分のことを無条件に受け入れてくれる存在に対する当たり前の渇望があり、それを颯子に求めている部分もあるのだと感じた。このあたりも、萌えヲタ的に大変わかりみの深いくだりだった。
 後半、颯子がプールをねだるシーンに関しては、しば氏が実に興味深い発見と考察を明かしてくれた。颯子を演じる女優達全員が督介を取り囲んで踊るのだが、全員の下着の色が異なっていた。それぞれの色は、それぞれの女優が担当する颯子のパーソナリティを象徴しているのかも知れない、と。他方で、かぶりつきの席では動きの激しい踊りに伴って舞い起こる風、そしてそれぞれの女優達の香水の匂いを感じることが出来た。このシーンでは、まるで督介が颯子の纏う風や匂いをも精神世界に取り込んでいるような感覚が得られた。
 実際、萌えヲタも時として実在しないキャラクターの存在を思うあまり、非常にリアルな質感を以って自分の傍に顕現させたかのように振る舞うことがある。あるいは、想像だけでなく、実際にキャラクターをイメージした香水を買ってみたり、抱き枕カバーやフィギュアやラブドールをまるで生きた人間であるかのように扱ったりすることがある。プールのシーンにおける舞風は、督介の颯子に対する思いがそのような準三次元的レベル(ヲタ用語で2.5次元)に達していることを示唆しているように思えた。

6.「ああ…あああああ…」
 後半、督介が遂に督介の足にむしゃぶりつくのを許されるシーン。
 そこで俺は本文の冒頭で書いた、与えられることの無かったものが突如与えられた時の、魂の底から細く滲み出して来るような、弱々しく見えるが実際は猛々しい絶頂に在る喜びを観ることが出来た。
 もし、実際に存在しない二次元キャラがスクリーンから飛び出して、俺の求める性的欲望を満たしてくれたら、果たして俺はどんな反応をするだろうか!その想像している自分自身と全く同じ反応を、督介は見せてくれたのである。遂に督介は、渇望してやまなかった、しかし不可能と思われていた颯子の足にむしゃぶりつく権利を与えられたのである!
 あの許された瞬間の「ああ…あああああ…」という喉から絞り出したような少ししゃがれた声の中に、どれほどの情念が込められているのだろう!それは、順風満帆な人生からは決して出ない、全ての苦労が報われた者の救済を得た時の声である。間違いなく、絶頂。そしてだからこそ、巨大な足に踏み潰されようが、彼は「それでもしゃぶるのをやめなかった!」のである。もはや彼の精神はその絶頂にあって執着という無限大の集中力と化し、足をしゃぶる舌先にしか存在しないのである。まさに一心不乱、そしてそれはむしろ無心に近い状態である。この有様を実に真に迫る演技で表現しきった俳優の方に、俺は心からの拍手を送りたい。そうした経験の無い方からすれば実に滑稽な、あるいは気持ちの悪い描写に見えるのかも知れないが、実際にそうした体験をしたことのある立場から言うと、本当にこの通りだからである。そして、この絶頂を契機として、督介の精神は更に一段階変貌を遂げたのだと俺は思う。

7.ラストシーン、夢か現(うつつ)か
 ラストシーンで、颯子は督介の望み通りに腕を組み、退出して行く。どうして颯子はそれまで督介と腕を組むのを拒んでいたのに、ここで腕を組んであげる気になったのだろうか?
 ストーリーラインとしては、医者が督介の病状を鑑みて、彼の望む通りにしてあげなさいと言ったことを受けての行動ではある。しかし、その通りにした颯子の心情は語られていない。
 1回目の観劇後、その疑問を質問として直接鈴木アツト氏にぶつけてみた。すると、これは督介の願望を表現したものだという答えが返ってきた。なるほど、つまりこれは劇中における現実世界の出来事というより、督介の精神世界における脳内妄想の現れであるということか。そう思うと、非常に合点が行った。この劇の題名は「瘋癲老人日記」である。つまり、ここに演じられている内容は全て督介の日記から来ている。ということは、全て彼の主観であり、それが妄想を書き連ねているに過ぎなかったとしても特段不思議なことでは無い。俺もかつてブログで大好きなキャラクターと一緒に生活を綴った妄想日記を展開していたので、その気持ちは非常によく理解出来る。時には現実と連動させ、時には完全な想像上の世界で、その日記はまるで現実に起きた出来事であるかのように書かれていたものだ。即ちこの劇は、どの内容が現実に起きたことの回想を表現していて、どの内容が妄想をつらつらと綴っていることを表現しているのか、改めて吟味しながら観る必要があるということだ。それを受けての、2回目の観劇だった。そうして改めて観た時に鮮明に浮かび上がって来た構造こそ、萌えヲタにもありがちな三段階の支配と被支配の相転移である。そして、最終となる三段階目の相転移が、このラストシーンで見事に表現されているのである。
 このシーンでの督介は、実に柔和で安らぎ切った表情をしている。それは、常に彼の大好きな颯子が傍にいると確信しているからに他ならない。しかしそれは果たして実際の颯子がそこにいるのか、それとも彼が精神的に創出させた非実在の颯子なのか?
 実際のところ、それはもはやどちらでも良いのである。ここに至って督介は誰が支配しているだとか、求めたり求められたりするだとか、与えたり与えられたりするだとか、それはもはやどうでも良いことであり、そうした次元を精神的に超越しているのである。督介は如何なる状況でも常に颯子が傍にいると実感してしまっている状態であり、それによる精神的な安定を得てしまっているのである。だからこその、あの緩み切った笑顔である。
 最終的に、あれだけ病み弱っていた督介が遂に死亡するという描写は無い。それは、この作品が日記の内容に終始していることを如実に表している。日記の限りにおいて、督介は生き続けているのである。そして、この時点において督介の日記における物語は大団円を迎えるのである。
 この、上下関係も損得勘定も無い、不滅の概念的存在と化した颯子と自身がただそこにいて幸せであるという、まるで悟り切ったかのような自己完結的関係性のあり方を、萌えヲタ的な概念範囲において俺は敢えてこう表現したい。
 「愛」と。


 今となっては、老人の生と性を描いた物語と言う触れ込みは、瘋癲老人日記という作品を語るにはまるで不足しているように俺には思える。もっと大きなテーマが、実に雄弁に語られていたのである。
 颯子、あなたという存在が自分の中にいて、それで幸せなのだ。
 これは、情欲から愛への解脱の物語である。
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