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チャンプ的脳内おっきage♪ #43

オカタイ文章/元・学者の卵の血が騒いだ
題:オタクとは、文化ではない。

 先日オタク研究で米国某N大にて博士論文を書いている友人と議論していて、今日まで思い至らなかった(自分としては)革新的結論に至ったかも知れない。パラダイムシフトである。そして、それを語った瞬間、友人も「その通りだ!」と同意した。
 即ち。
 「オタクとは、文化ではない」
 Otaku, is not "a culture".
 某K大、大学院時代で文化人類学をかじっていた頃、米国某S大出身でドイツ系アメリカ人の指導教授から、文化とは学術的に「Attitudes, values, and beliefs of a certain community or a group of people」であると自分は教わった。また、Kim Ann Zimmermannは文化=cultureとは「The characteristics and knowledge of a particular group of people, defined by everything from language, religion, cuisine, social habits, music and arts」としており、ミネソタ大のCenter for Advance Research on Language Acquisitionによると「Shared patterns of behaviors and interactions, cognitive constructs and understanding that are learned by socialization. Thus, it can be seen as the growth of a group identity fostered by social patterns unique to the group」として定義される概念である。
 即ち文化という概念は、少なくとも何らかの「a certain group of people=特定の集団」を対象とした概念であり、その集団に共通する、同一性を持った特定の思考や行動の様式を総括して「なんとか文化」であると言える。
「オタク文化」というタームを口にする場合、我々はオタクという同一性を持った特定の思考や行動の様式を持つ集団を想定して考えていくこととなる。そして「オタク文化研究」を行うということは、何か特定の「オタク集団」なるものを対象とし、彼らを「オタク文化を代表し得る思考や行動の様式を持つ」と仮定することとならざるを得ない。
 それでは、果たしてそういった「オタク文化を代表し得るオタク集団」は存在するのだろうか?
 例えば、コミケはオタク文化を代表すると一般的に想定されやすい場であろう。それでは、コミケへ行けばオタクかと言われると、一生コミケどころか同人誌即売会へ行かず、それでも自らをオタクとして認識する人間は数多く存在する。また、コミケへ足を運ぶ人同士を比較しても、コスプレする人、写真を撮る人、同人を売る人、買う人、散歩するだけの人、食事に行くだけの人、オタク友達と再会するだけの人などがいて、また表現ジャンルもアニメやゲームだけでなく軍事、医学、社会、評論、あるいは本やゲームだけでなく写真集、模型やジオラマ、服飾、ガラス細工など、その種類は実に多岐多様に渡る。果たして、コミケへ行く人間を「コミケへ行く」という共通項を除いて「同一性を持った特定の思考や行動の様式を持つ集団」として定義し得るだろうか?答えは、明らかに否である。そもそもコミケの意義とは、その多様性にこそ存在するのであり、ましてやコミケに行かないオタクを含めて考えた場合、猶更それを同一的集団と考えるのは不可能である。それを理解すると、如何に「オタク文化研究」という言葉が虚偽であるかが解る。
 例の友人はいわゆるオタク的概念(としか、もはや表現のしようがない)の中で「聖地巡礼者」を対象にフィールドリサーチを行っているが、その友人によれば、同じ「とある聖地」へ向かう「巡礼者」でも、彼らを「同じ集団」として捉えられないと言う。彼らは確かに同じ場所へ向かうが、互いに目的も行動も違いすぎるし、それぞれの出身地・文化的背景も全く異なり、互いを同じ仲間として認識するような行動や会話もなく、ただその「とある聖地に行く/居る」という共通点を除けば、てんでバラバラな人たちでしか無いのである。それを「一つの文化的集団としてカテゴライズする」のは、あまりにも無謀である。彼らは文化的活動もするし、経済的活動もするし、政治的活動をする人もいるかも知れないし、文学的活動をも行うのである。そう考えると、オタク、たとえそれが聖地巡礼者という限定された各論的属性に考察を狭めても、それらを文化という大枠に含めてしまうのは不可能に思える。
 即ち「オタク」とは、もはや「文化」ではなく、例えば「政治、経済、文学、宗教、哲学、数学、化学、医学、生物学」みたいな大枠に連なるような、それそのものが一つの学問的体系を為す概念として捉えられるべきものであると、ここに考察するものである。結局「文化研究としてのオタク文化研究」や、それ以外にも「経済学研究としてのオタク経済学研究」「哲学研究としてのオタク哲学研究」などというものは、全くのナンセンスであり、それを敢えて為そうとするのであれば、それは「オタクという何らかの総論的概念に定義されるものの、ごくごく一部を切り取って、それぞれの専門分野で分析した局地的研究」に過ぎないのである。例えば、日本にあるお寺に属するコミュニティーの文化を研究しても、それは「仏教的な一つの地域研究」であり、かつて自分が大学院生として行った「宗教と文化の研究」という「両立する概念同士を局地において比較する、概念比較研究」にはなっても、全体としての「仏教文化研究」とはなり得ないのと同じである。
 要するに、もし「オタク」を研究・理解しようとするのであれば、それは一つの総論的概念としての「オタク」をどのように定義するのか、という次元から始めないといけないとここに考察するものである。
 現状では、100人のオタク研究家に「オタクとは何か」を問うと、100通りの答えが返ってくると推察する。未だにオタク研究というのは木を見て森を見ずの各論的研究に限定されており、今後はそれを総括した、例えば社会学、文化人類学などと対等な概念的集合性を持つ「オタク学」というジャンルを新たに規定していかないと、最終的に「オタクとは何か」のコンセンサスに辿り付かないし、オタク研究というジャンルそのものが不安定な土台に築かれた砂上の楼閣に近い、非体系的な散発的研究の集合体に終わってしまいかねないという可能性を危惧するものである。そのため、今オタク研究という学術分野で必要とされるのは、如何にしてオタクという概念に対し一定の共通認識が得られる意味付け、定義付けを構築して行くかであり、また、それが得られるためにはどのような研究を遂行して行くべきかを考案して行くことと個人的に思うところである。
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詩集2016.4-2017.3

2016年度の詩の総集編。
研修医二年目の足跡がここに?
暇な方はもしよろしければご笑覧を。

ちなみに以前のはこちら:

詩集2015.4-2016.3
http://zenon.jugem.cc/?eid=5886


詩集2011-2015.3
http://zenon.jugem.cc/?eid=5775


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2016年

4.18 しろわいん氏に捧ぐ都々逸三連 with 鳥海山「春宵一刻」

高校来の 大親友と
ほろ酔い混じりの 長電話

誰ぞ喚んだか 酒鬼のお供に
電話の先の 大親友

お酒と友と 積もる話に
春宵一刻 華が咲く

4.23 内科研修も終盤

侘しくも 卯月平和な 昼下がり
 土曜職場ぞ 静かに微睡(まどろ)む

5.2 マザー牧場

房総や 春風薫る まどろみに
揺れる車内で 肩を寄せ合い

五月晴れ
牧場(まきば)の空と
ジンギスカン
頬張る君に 笑顔溢れて

6.9 この時期に蝉の音を聞く

蝉の音や 夏待ち切れず
露出(つゆい)ずる
水無月初旬 ツクツクボウシ

6.29 石神井公園にて

笹の葉や 願いを載せて
さらさらと
石神井池の 風に遊びて

7.1 自作英語ポエム+ソング

O'er mountains high our paths have lead,
so much the pain, now memories of old.
Ten thousand miles our feet has tread,
through wind, through rain, through heat, through cold...
Through wind, through rain, through heat, through cold.
"All toil shall end," we've always said,
however far apart, our spirits still bold.
"Yes but 'till when?" sighs our shaking head,
bitterness deep in heart, still to behold...
Bitterness deep in heart, still to behold.
To valleys deep the road lay ahead,
league after league, eyes ever blindfold.
As we drag on like walking dead,
ever the fatigue, suffering manifold...
Ever the fatigue, suffering manifold.
Yet we believe with souls bleeding red,
there will be chance, to break the mold.
The time shall come for hope to spread,
and one day we'd dance, through fields of gold...
And one day we'd dance, through fields of gold.

7.11 777で揃えてみたw

紫陽花の 句も詠まぬまま
七月よ 七面倒に 七転八倒

7.27 長梅雨でした

蝉の音や
増えど増えども 梅雨明けず
梅雨入り前の あの蝉いずこ

7.29 楽しかった精神科研修終了

梅雨明けて
二ヶ月過ぎし ゆめうつつ
まどろみゆきて 夏は訪れ

8.4 父子酒

サシ向かい 夏の夕暮れ 父子酒
仙禽一聲 呑み干す気持ち

8.8 親子鍋@赤から、親父殿の作

汗たらり 美味さ格別 親子鍋

8.12 コミケ初日、午後はメリサを羽田で見送り

蝉の音や コミケ彩る 交響曲
夏の祭典 宴始まる

西の空 君を見送る 夏蛍
半月先の 再会思ひ

モノレール 夏の水面ぞ 流れ行く
思い耽るは 江戸の黄昏

8.22 夏燗酒

夏燗酒 五臓六腑に 沁み行かば
中野の夜に 酒唄を
山抜く力(りき)も 世を蓋ふ気も
艱苛の終に 尽き果てば
筆は奔らず 血肉は沸かず
衰え枯れた 酒唄を
豪侠一人 剣ぞ折れり
文や汝を 如何せん
覇王別姫の 覚悟すらなく
志なき 酒唄を
夢今まさに 破れた敗残
七逃げ人の 悲哀ぞ噎(むせ)ぶ
猿死に餓鬼ぞ 七朝八朝
泣き父泣き母 酒唄を
死ぬ勇気すら 無い半端者
生きる価値すら 見失う夜
夏燗酒 のらりくらりと 明日もまた
管巻く俺の 酒唄を

10.11 愛する君に 捧ぐ酔(よい)歌

酒呑まば 秋の夜長に 君の貌
酔わばさしずめ 呉王夫差かな
西施の笑みに 心狂いて
臥薪艱難 忘れ去り
かの蒼天を 思い仰げば
頬を掛け抜く 江東の風
安堵一息 吐く心地
酔い醒めて 尚も輝く 君の貌

11.20 某所日本酒会にて、シャトーブリアンも

晩秋や 珍味繚乱 舌鼓
道楽尽くしに 酔いてをかしき

11.28 病院見学で運命を悟る

吾れが代は 八千代に千代の 巌成し
玉に磨きて 苔ぞ生さざる

2017年

1.4 題:皮膚科医の悪夢(怪物くんの替え歌で)

カーイカイカイ カーイカイカイ
不快 不愉快 疥癬くんは
角質ランドのプリンスだい!
イベルメクチンには弱いけど
黄ブ 溶連 なんでもこーい なんでもこーい
トンネル 堀り掘り ピキピキ ドカーン
たちまち 卵が 大孵〜化〜

1.8 親友の御結婚に寄せて

めでたきは 睦月門出の 夫婦かな
親しき友よ 永く幸あれ

3.5 新居決定

夢見月 八千代の空に 昇り出で
春は曙 訪れ近し

3.22 最後の神内CPCを終えた後、都々逸三連

永き道程 歩んだ末の
桜の頃の 酒の味

英語の通訳 お願いしますと
酔いどれ医者が 頼まれる

病院ぐるみで この藪医者を
信じてくれて ありがとう

3.29 誕生日に引っ越し、新たな門出

夜桜や 門出新たに 三十八歳(みそやとせ)
幸多かれと 天ぞ仰げば

3.31 勤務最終日

いざさらば 弥生の空も 暮れ行けば
数多の愛に 押されつ先へ

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 この一年は俺の進路が決定した激動の一年でした。
 詩の内容から、感情の起伏の激しさが解りますな。
 まぁ基本、メリサが隣に居れば幸せでしたが(ノロケ)。
 こうして最終的に、俺は皮膚科医となるのでした。
 さて、2017年度は、どんな詩模様を見せるのかな。
チャンプ(−O−) * 詩集 * 23:22 * comments(0) * -
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